カテゴリ:いのち( 2 )   

人を癒すのは   

2010年 09月 30日

人を癒すのは、

技術や治療の方法論ではなくて、
まして知識や経験でもなくて、

人の本質を純粋な眼で見て、ただ見ている、その眼だ。

その人をきゅうくつにしているおそれを見るのではなく、
その人を彩っている自信や美徳を見るのでもなく。
ましてや、癒し手のいまだ癒されない感情を投影したものを見るのでもなく。

奥のほうにいる、光に満ちた、真に自由なその人自身。
それを見る眼が、解放する。

癒し手であろうとするなら、何かを習う必要もない。
純粋な眼をもつことを意図するだけだ。

資格や技術、幅広い知識は、大事な付属品だ。



癒すことで何を得ようとするのか?

収入、名誉、感謝、誇り、成功、尊敬。
どれも大事だ。
生きるのに欠かせないものだ。

しかし、純粋な眼を育むのは、癒したい、そうせざるを得ないという単純な選択だ。

まぜこぜにしてはいけない。
得るものを先にしては純粋な眼を失う。


まずは自分だ。
終わりのない旅。
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ホスピスへの思い   

2010年 09月 14日


 去年の5月まで、ピースハウス病院という独立型ホスピス(病院の中の一部としてではなく、ホスピスのみの病院)の訪問看護部門で、在宅ホスピスの仕事をしていました。

 その年の4月の若い友人の死をきっかけに、それまで抑圧してきた母との死別の悲しみや看取ってきた患者さんたちとの別れの悲しみが浮かび上がってきて、背負おうとしてきたものの重さに耐えきれなくなり、退職を余儀なくされました。

 『もう、死を背負うことができない』

 というのがその時の思いでした。
 死を背負う、そんなことが本人以外にできるはずもないのに、そうしなければならないのだ、と力が入りまくっていたんですね。

 罪の償いをするかのように、その仕事を本当の重さ以上に重く感じて、これでも足りない、と自分を責め追い込むように仕事をしていました。
 楽しいことや歓びをもたらすこと、楽をすることにも心を閉じて、修道女のような生活だったなあと今は思います。

 仕事をやめたことでそのことに気づき、ほんとうに良かったと思います。

 でも、いいホスピスでした。
 素晴らしい看護の先輩がいて、看護部長がいて、真摯に仕事をする同僚に恵まれました。

 北海道にいたら知らずに終わっていたようなことを、たくさん知りました。

 今でも、ホスピスへの特別な思いをもっているのです。

 死を迎えていく人たちに接することは、私にとって、正直なそのままの自分でいられる貴重な体験、貴重な時間でした。それは、死にゆく過程で人はどんどん正直になっていくからです。
 死に向かう途中、人はいろんな感情や反応を見せますが、それがどんなものであれ、敬意を感じていました。最も苦悩を伴う道を、なりふりかまわず、勇敢に歩いている人だからです。
 
 私は正直でいることが好きだけれど、それは日常では厳しすぎることなのだと思います。
 そのような自分でいると、周囲の人を苦しめるばかりだ、と感じてきました。
 だから、なるべく正直でいることを避け、ありのままの自分でいることを許さないようにしてきたのだと思います。

 でもいまは、それほど正直でいられることは、ある意味で特別なことだと感じています。
 人を安らげることはできないかもしれないけれど、何かの役には立つ、そう信じることができるようになってきました。私は私でいることにしたのです。

 
 もう今は、直接的に死にゆく人に向かい合うことはできないけれど、チネイザンなどで癒しの技術をもつ友達と多く知り合ったことで、何かボランティアとして提供できることはないかと、ふと思いつきました。
 そして、それを話した多くの人から、前からボランティアをやってみたかった、ホスピスに興味があった、と賛同を得ることができました。

 みんなで集まって話し合ったり、元上司のホスピスの看護部長に相談したり。
 方法はありそうでしたが、できる施術が代替療法でありスタッフの理解が得られにくいこと、資格や技術が一定でないこと、長期にわたるコミットメントが必要なこと等から、患者さんへの施術、という当初の希望を実現するためには多くの時間と努力が必要だということがわかりました。

 でも、患者さんへの施術でなくとも、できることはあると思いました。

 当初思い描いた「代替補完療法と呼ばれる分野がホスピスにできること」のヴィジョンの中には、患者さんへの施術だけでなく、関わる家族や医療スタッフへの施術も含まれていたからです。
 常に精神的・肉体的緊張を伴う仕事であり、慢性疲労状態であったナースの一員だった私は、そのようにボランティアとしてケアをしてもらうことで単なる肉体的回復以外の何かを得られるのではないかと考えています。

 ナースや医療に関わる仕事は、与えることに慣れていますが、自分もケア(特に精神的ケア)の必要な存在であるというふうにとらえることが苦手なように思います。
 それは、私もそうであったように、悲しみなどの感情を抑圧したまま働いていることが多いこととも関係しているのではないかと思うのです。

 また、西洋医学に携わり科学的根拠に基づいた医療・ケアを行っているスタッフたちが、タッチにこもった何かを感じ取ったり、見えないけれど変化を及ぼす力を体験することは、これからの医療にとって、とても重要なプロセスだと思うのです。
 私も看取ってもらうなら、見えるものも見えないものも大事に思える人にお願いしたい、そう思います。

 以前から夢見ていた統合医療というヴィジョンに向かう、小さな一歩として、肩の力を入れずにできることは何だろう?という問いの結果、ほんとうに小さく、自宅でナースの友人にマッサージを受けてもらう会を開くことにしました。

 この会についてはまた後ほど。
 とても楽しく、喜んでもらえる大満足の時間になりましたよ。
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