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通り道としての自分   

2010年 07月 20日

3連休で、西伊豆の堂ヶ島に海水浴にいってきた。

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ビーチ目の前のもう営業していない民宿を借り切って、BBQと海遊びと波の音をききながら寝る、の日々。

海の水は透明で、いろんな魚がたくさん。
男性陣が突いてきた伊勢エビのお刺身もおいしい。
魚たちはもぐって手を差し伸べても逃げずに、遊んでくれているみたい。
青く光る小さな魚たちの群れは、私が移動してもずっといっしょについてくる。

さいしょ小ナマイキだった六本木ヒルズに住むセレブな中1ガール達も、
いっしょに泳いだり潜りかたを教えてあげると素直にいうことをきいてついてくる。
潜れなかった2人が、どんどん上手になっていった。
こども達の、おそれの壁を破る力強さに感動する。

負けずに私も、自分の限界に挑戦して、自分のいったことのない深さまでいってみる。
潜る時の苦しさは、海の底にはない。
海の底は地上とはちがう海の時間が流れていて、しんとする。

自分のいったことのないところ。
それは海までいかなくても、いつも自分のすぐ近くにある。
おそれの壁さえ乗り越えれば。


もうひとつ挑戦して、自分の飲んだことのない酒量を試してみる。
くらくらして、足元がふらふらして、胸がどきどきして、ぽわーんとして、でも気持ちいい。
息切れがしないともっといいんだけどな。


とにかく、全てが楽しくて、無理がなくて、幸せだった。
何も考えないで過ごした。
やりたいことしかやらなかった。
一緒に過ごすみんなの素敵なところがぐっと胸にせまってきて、みんな愛おしかった。
こどもにも犬にも魚にも人間にもなつかれた。

ひとりで早朝さんぽしていたら、ふと「通り道としての自分」という言葉が浮かんで、そういう存在としての自分を認識した。

その認識がやってきたのも、ある人が、通り道を掃除してくれたから。

大きな流れが私をここまで運んできて、それは良いとか素晴らしいとかいうこともなくて、ただもうその流れがそこにある、それだけだ。



伊豆から帰ってきて、海で過ごした時間への執着が生まれていることを感じる。
出逢った人、生まれた感情、感動を、頭が無制限にリピートする。
自分がいかに素晴らしいかということにフォーカスするエゴの働き。

それと同時に、視界がぼやける。眼鏡をかけないといられない。
現実を見るより、妄想にふけっていたいようだ。

生活のいろいろな選択が自分の中心軸からずれているのを感じる。

美味しいものを食べたり飲んだり、人に会って騒いだりすることは楽しいけれど、自分が消化できる量や範囲を超えると消化しきれなくなる。
通り道がつまってしまう。


はやくきれいな通り道にもどせる方法を見つけよう。

通り道をつまらせないあり方にフォーカスしよう。



いつも、みたことのない景色はすぐそばにある。
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倭姫宮詣り覚書   

2010年 07月 14日

『倭姫命世紀』

 人は天下の神物(みたまもの)なり。心神(たましい)を傷ましむることなかれ。

 
 神は垂るるに祈祷(ねぎごと)をもって先となし、冥(めい)は加うるに正直をもって本(もと)となせり。

(神が目に見える霊験を現すには祈祷をもって先とする。目に見えない加護を与えるのは正直な生き方を根本とする)


 神を祭るの礼は、清浄をもって先となし、真信(まこと)をもって宗(もと)となす。


 黒心(きたなきこころ)なくして、丹心(あかきこころ)をもちて、清く潔く斎(ゆまわ)り慎み、左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左とし右を右とし、左に帰り右に回る事も、万事違う事なくして、大神に仕え奉る。


 元(はじめ)を元とし、本を本とする故なり。

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選択と決断のはなし   

2010年 07月 04日

 こないだ、ランチをごいっしょしたテッシーと、ワールドカップの日本ーデンマーク戦での本田の試合後の様子についてアツく語っていたら、テッシーがこんなことを言い出した。

「あれは、本田が優勝する、レアルに行く、トップにたつ、ということを『選択』してるからだと思う」

テッシーによれば、何かを決めるとき、選択することと決断することの二つがあって、決断というのは理由があって決めること、選択というのは自分の内側からの衝動に従って決めること、なのだそうだ。

理由があって決めたことは、理由がなくなればそのこともなくなるし、言い訳がきく。
サッカーの才能があるから、サッカーが好きだから、勝ったらみんなが喜ぶから。

選択は、全て自分で責を担う。



うーむむ。
納得。

自分自身を考えてみると、「条件が整ったから、整ってるから何かをする」(例えば引っ越しとか…汗)というのは案外思ったようにすすまない。

そーか、いろいろと理由をつけてやってきたなあ、とつぶやくと、テッシーは
「いや、あゆみちゃんは選択を繰り返してきた人にみえるよ」
と言ってくれる。

ほお。
そう言われてみると、北海道から30も越えて出てきたこと、「死をみるんだ」とホスピスに飛び込んだこと、「もう死を見続けたくない」と仕事を辞めたこと、チネイザンを習ったこと、いまチネイザンをやってないこと、本当に理由を問われても、「そうしたいからだ」「そうしたかったからだ」としか言えないことばかりだ。

でも理由を説明しなきゃならない気がするので、何とか言い訳を考えだして、「過去こういう理由でやったけど、今こういう状況があるから、この先はこういうふうにやっていく」というストーリーを作っておかなきゃなんない、という焦りがいつもそばにあった。

いま、それがないから楽なんだな〜と書いててふと思う。


私の行動を理解できない人には理由を聞かれるけれど、べつに説明する必要はない。
と、説明をしなくなってきたら、説明を必要としない感覚的なお友達とつきあう比率が増えてきた。
おもしろいもんだ。


そう考えると、政治でも「説明責任」なんてのをあんまり求めすぎるから、論理に偏りすぎて、直感的に物事を断固としてすすめる、という強い政治家がいなくなるんじゃないかなーともふと思う。


昔から、「いつ死んでも後悔はない」と感じていたけど、それは何かを成し遂げたからとかやりたいことはやったからとかほしいものを手に入れたとかそんなことが付随していなくても、全ての時点で私がそのとき出せる全力(ほんのちびっとだったとしても)を出し尽くして選択してきたからかもしれない。
それを思うと、幸せだなあ。
だだっこの全力。


選択は、間違えてもいいんだと思う。
そもそもマチガイなんてない気もするけど、「あ、ちがった、これは欲してなかった」と思ったら、違うものをまた選択すればいい。
それを欲してないということが身をもってわかる、それは素晴らしいことだ。


いま受けているベイツメソッドでも、「見ること」と「見ようとすること」には決定的な違いがあるそうで、見ようとすることには、内部で強制する自分と強制される自分に分裂が生まれる。
では「見ること」をするにはどうすればいいか?
最初はそれが難しく感じたけれど、単に、「見ること」を選択するということなのかなあ、といまは何となく思う。


と、あっちゃこっちゃにはなしがとんだけど、
選択、というキーワードがいますごく気になる、のはなしでした。

まとまんねー!
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3回めのベイツセッション   

2010年 07月 01日

きのう、梅雨の晴れ間の代々木公園で、3回めのベイツメソッドセッションを受けた。

宿題をちゃんとしない不真面目な生徒だったせいか、今までは意識の在り方の変化は感じても視覚自体の変化をはっきりとは感じられていなかったのだけど、昨日はびっくりするくらいはっきり見える瞬間があって、驚いた。

視界の中の全ての動きに気付く、というエクササイズの中で、TVの画面がぱっと切り替るようにして、木々の緑がクリアに見える瞬間が何度かあった。

「おお!」「わあ!」「ええ?」とか言いながら。

それと同時に、1枚の絵か写真のように見えていた景色が、奥行き感をもって見えてくる感じも体験した。
今まで、奥行きを感じていないなんて思っていなかったのに。

視力回復につながる手応えを感じられたし、お気に入りのエクササイズもおしえてもらったし、自分でやってみるのも楽しみ。


田辺くんが教えてくれる眼のことやエクササイズも興味深いし役立っているけど、彼の教師(ベイツではティーチャーというそうです)としての在り方が私にはしっくりと来て、とってもいい。

変えようとしないし、知識を押し付けないし、準備ができていることだけをかなり厳密なレベルで察知して提供してくれているので、安心できる。
強制されることに敏感な私がそう感じるのだからマチガイない!

それにいつも新鮮な眼で世界を眺めていて、いつ会っても楽しそうなところもすごくいい。

会うだけで、その場に一緒にいるだけで、その人の在り方のようなものが影響を与えてくれる人がいるけれど、彼もそういう人の一人だ。


知り合えてよかったなあ。
ありがとう田辺くん!
あ、北海道のお土産もありがとう!(←業務連絡)
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