カテゴリ:日々の雑感( 21 )   

きのう温泉で   

2011年 06月 08日

 昨日、しっとりとした曇り空の中、箱根の姥子温泉に、石巻で同じくボランティアナースとして来ていて知り合った友だちと行ってきた。


 彼女とは、活動している避難所が違う場所だったにもかかわらず、支援する視点や姿勢が似ていたので、現地で共有できた時間はきっと数十分程度に過ぎない。それでもほんの少しの時間でめいっぱいしゃべり倒しコミュニケーションし倒し、思いを共有できた喜びを糧に、なんとかそれぞれの場所で活動をやりとげることができた、という仲間だった。

 石巻のコンビニで彼女と偶然会って、10分や20分の間に、お互い史上初ではないかと思われるものすごい早口で、ものすごい量の情報量をやりとりして、ものすごい早さでわかりあったあの時間は忘れられない。

 その彼女と、こんどは時間がものすごくゆっくりと流れる箱根の隠れ家温泉で、4時間くらいのんびり休憩しながら温泉に入ったりお散歩したりマッサージしたりしながら過ごしたのは、おもしろいもんだ、と思う。

 時間はあきらかにのびたりちぢんだりしている。



 そんなのんびりの時間だったけれど、やっぱり彼女と会うと石巻での出来事がたくさん思い浮かんできて、しゃべり倒したし、温泉に入るたび、マッサージ機でマッサージするたび、新緑のまぶしいみどりに心和ますたび、「ああ、こんな心地よさを被災した人たちに味わってもらいたい」と思った。彼女も同じように思っていたらしい。

 神奈川に帰ってきて自分の生活にもどってからは、そういうふうにはぜんぜん思っていなかったのに、同じところを体験した彼女といるとそういう気持ちになるんだから不思議だなもんだ。

 
 彼女は3回にわたって被災地に入りボランティアをしてきた。
 彼女と話していると、私がいま抱えている思いがそれを体験した人に共通するもので、みんなが通る道なんだということがわかってきた。


 ボランティアに参加したのは、何かをしたい、しなければという自分の思いを満たすためのものだったこと。

 一度活動したあとは、その後の現地の経過が気になって、また参加したくなること。

 活動中は自分の能力や生命力のようなものが格段に引き出されて、生きているという感じを濃く感じられたこと。


 
 何度も、また長期間にわたってボランティアしている人の中には、そこに自分の「居場所」を見出して、そこにいる限りは満たされる、その感じを求めているように思う。
 そこにいれば、求められることがあり、日常の何倍もの力を発揮することができ、人のために役立つことができ、それによって自分に価値を感じることができる。

 何度もボランティアに参加してしまう、それを称して「石巻病」というふうにも言われていたけれど、私は、「石巻病」になるのがなんとなくいやだった。そこにしか居場所を見出せない人のような気がして。

 活動を終えて避難所をあとにするときは、次にまた行くことは考えていなかった。この経験がどう自分の中で位置づけられるのか、それを丁寧に見ていこうとだけ思っていた。

 
 神奈川に帰ってからの一週間、世界は色あざやかに見えて、生命力はもえたぎり、できないことは何もない気がする、という興奮冷めやらぬ日々を過ごした。
 石巻の日々を思い返すこともあまりなかった。

 それが、ふと少し体と心が落ち着いて、浮かび上がっていた空中から地面の方へ近づこうとした時に、無性に石巻が恋しくなりはじめた。
 今思えば、浮かびつづけていたかったんだろうと思う。無敵なままでいたかったんだろう。
 石巻に住み着くことさえ考えた。
 もっている力が増幅されるあの感覚。
 被災した人々が、あの苦しい状況でそれでも何とか生き抜くために、本能が呼び覚ましたあの心と体の状態を、感じつづけたいという強く願った。

 自分は被災地で、あんなこともこんなこともできる、役に立てるはず、とも思った。あそこではできないことなんかない、と感じていた。それほど思いが現実化する速度が早く、パワーの強いところだった。

 
 そんなときには、隠れていた自分の一面が表面に見えやすいように現れてくるのかもしれない。

 あきらかに出続けていたアドレナリンレベルが下がってくるにつれて、あまり見たくなかった自分が見えてきて、落ち込んだ。

 自分の力や価値を、自分で認めるのではなく、人に認めて評価してもらうことによって実感したい欲求。
 それゆえに、自分をより大きく強く見せたい欲求。力み。
 
 
 イコール、『そのままの大きさの自分を自分自身が認めていない』

 
 その力みを、SEセッションで藤原さんが指摘してくれた。
 
 人に認めてもらわないといられない、というその心の痛みを守ろうとする試み。
 
 心の痛みや空虚さ、それを認めて。
 それを隠そうとする自分の切ない試みもただ感じて。

 そのように藤原さんは示唆してくれたのかもしれない。




 





 
 

 

ながれ   

2011年 03月 17日

 3.11地震の後、強い恐怖を感じていた。
 神奈川には家族も親戚もいない。
 何かあったら1人で判断して逃げなければならない。

 余震の続く中、その緊張感から体がこわばり、冷え、すくみ、凍りつきそうになっていたが、とにかく温かいものを食べ、避難用品の準備などできることをひとつひとつやり、恐怖に対して自分が無力でないことを行動を通して確認していった。

 それに、不安や恐怖があっても、よく体と心を感じていくと、必ず大丈夫な部分もある。
 そこを感じていると、とどこおったものが流れ出し、あたたまり、ゆるむのを感じることができた。

 折よく地震前に受けていたソマティックエクスペリエンス(トラウマに対するアプローチ)のセッションでの体験が、「大丈夫な部分を見つけてフォーカスすること」「緊張や不安・恐怖を与えるものからは自ら遠ざかることができる、決して無力ではないこと」「怯えている内なる子供のそばで、触って共にいること」「欲しいものに向けて手を伸ばしていいのだ、と自分に許可を与えること」などを自然に導いてくれた。

 不安な中、最も必要としたのは誰かと一緒にいて、話したり笑ったりして、恐怖も希望も分かち合うことだった。
 それで、できるだけ近くの友だちと一緒に過ごし、恐ろしいニュースも一緒に見て、なんだかんだと話し、笑い、そして手間をかけた美味しいご飯を食べた。

 その友だちに泊まっていってくれないかと頼むと、別に暮す一人暮らしの母親が心細いだろうから、と夜中には帰っていった。

 その翌日、「興部に帰りたい」と朝目覚めた時に思った。

 朝のひらめきはだいたい信用しているのだけれど、この時は迷った。
 それが恐怖から生まれた願いだったら、何か違うな、という思いがあった。
 原発の不安、そしてそれ以上に東海地方に大地震が連鎖的におきるのではないかという不安。

 この願いがどこから来ているのかを確認するのに、2日かかった。
 凍りついては大丈夫な部分を感じ、ということを繰り返していると、ふと腑に落ちる時がきた。

 私は恐怖から帰りたいのではない、家族に会いたいんだ、と強く感じていることがわかった。
 もちろん恐怖も不安も存在している。そう自分が感じる不快な場所から、安心できる場所へ移ることは、自分を大切にすることだ、と納得した。

 その願いは、今、地震があったから生まれたものではなくて、もともと持っていたのに何かのちからで強力に抑え込んできたものだ。
 地震の揺れが、心の地中奥深くに眠っていたその宝物を、地表面まで押し上げてきてしまった。

 これはもう観念するしかない。
 それが大事な宝物だったと認めるしかない。
 家族というものの持つ、愛しさも悲しさも、様々な形に見えてくる全ての現象を、透き通る目を保って、見つめるしかない。

 さっそく、その作業に痛みと悲しみ、不安や恐怖を感じている。
 でも必ず大丈夫な部分があるはずだ。
 安心していていい部分にフォーカスして、自分の中の小さな子供とともにいて、安心と安全を守りながら、そこにあるものを見つめる。
 地震が教えてくれたやり方が役に立ちそうだ。

 これが、地震が私に与えてくれたミッションだ。

 看護師でありながら何もできない罪悪感、被災してもいないのにいち早く関東を離れた罪悪感などを見つめながら、強くそう思う。

 私は私のできることを。
 心と体が望むことを。

 心を込めて日々を過ごします。


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自我はいろいろしかけてくる   

2011年 02月 20日

自我=エゴ=思考
は、なんでも今あるものを失うことがいやなので、いろいろと巧妙にしかけちゃってくれます。

もしかしたら自分の奥の方にいる本質の「自己」(=源=ハート)はもういらないものを手放したがっているのかもしれないのに、自我はいろいろと理由をつけてきます。

自己に重心をおいていると、何を見ても、何かを得ても、何かを失っても、大丈夫だとわかります。

自我に中心がある時は、そういうわけにはいきません。
失う恐れが根っこにあるので、不安に基づいた計画を立てたり、何かを回避しようとしたり、今あるものをありのままに見たり感じたりすることができません。
何かを見たり感じたりしないために、他のものを見たり感じたりするようにすれば快楽は得られるけど、存在の底の方から沸き上がってくるような歓びはありません。

どんな恐ろしく思えることでも、またどんなに素晴らしく見えることでも、ありのままに見るとそれだけのものだとわかります。
不安、ああこういうものなんだな。
おそれ、ほっほー。中にいる時はつらかったけどねー。
美しさ、それは美しい。以上。


不安があっても、おそれがあっても、ハートにつながっていれば大丈夫。
そうしたければ、心おきなく揺れたり取り乱したりできるし、静かにその感情を見ていることもできる。



ハートの奥の源につながっていたい。
それが私の願いです。


そのために、死にゆく人とかかわるのが好きだったし、尊敬する人たちと知り合った。
彼らはどんな形であれ自己を実現している人たちで、その人たちと一緒にいるだけで自分も源に連れていかれていたんだと今わかる。

そのために、すべてのことがおきている。
私の願いを実現するために。


すべての出来事に、すべての人たちに、感謝です。

にぎった手をひらく   

2010年 09月 10日


大事なものをにぎりしめた手をゆるめてひらく作業は、ことのほかいろいろの感情を伴う

相反するものもたくさん

かっこよく手ばなすと決めたはいいけどぐらぐらゆれうごく

ちっともかっこよくもないし、美しくもない感情たち

でも生きている!

どくどくと血の通った私の大事な感情たち



手をひらくことのできた喜びと誇り

うしなう悲しみ

広い視野、高い視点で見たときにただしいと思っても、小さい自分は拒絶する

精神と身体の葛藤

手をはなしたものが誰かのものになってしまうことへの、嫉妬と怒り

前に進むことのおそれと期待

手をはなすことによってより広がり深まる、愛のようなもの




ほかに何がでてくるのか

ぜんぶ見てみよう

ぜんぶ私だ

私のいきいきとした生の感情たちだ



いちど手をゆるめても油断をすれば力が入る

乱暴に手をひらいてふりほどいて捨ててもいけない

大事に、それにふさわしいスピードで手の力を抜いていかなければ抵抗の力が生まれる

手ばなされたものが、前よりも輝くようなやりかたで作業をする

手をひらくプロセスに愛を込めるのだ

ベイツメソッド、その後   

2010年 08月 04日

 3回めのセッションを受けてから、マイティーチャー田辺くんがイギリスにベイツ修行の旅に出ていたので、しばらく間があいている。

 宿題に教えてもらっていたロングスウィングというエクササイズは、私の場合、意識のあり方を切り替えるのにとても役立っていたので、田辺くんに教えられた通り「取り組むための場(スペース)をつくる」ために公園に行って、近くの緑から遠くは富士山まで望みながら、ほぼ毎日やっていた。

 やっていると、TaoZenで習ったヒーリングサウンズをしている時みたいに、あくびが出て、涙がでて、わたしの場合鼻水も流れて、からだと意識全体がほわんとゆるんで、一つにまとまった感じになる。
 この反応、どういう時におこるのかはっきりと言葉では言えないけど、エネルギーがクリアに通り始める反応と言うか、何かのきっかけがあって身体が勝手にお掃除を始める感じというか。
 伊勢神宮に参拝したときも、お社の前にたってお参りするたびにあくびしていた。


 毎日やっていた、というのは、やらなくなった時期がもちろんあったわけですね。

 その時期は、自分にとってよく見たくない、忘れたい、感じたくない出来事や感情があって、自分からよく見るためのエクササイズなんかしたくないさ、そりゃ、という感じでありました。
あとから振り返ると。
 少しロングスウィングをやってみたとしても、いつものように目の緊張が抜けず、かえって疲れるような結果になったりしていた。

 その時期もほとんど裸眼で過ごしていたけど、かなりぼやけた日が続いたりもして、心細い気持ちになっていた。

 でも。

 この、エクササイズもしないで、ただ裸眼ですごしていた期間に、大きな意味があったんだなあと今は感じる。

 心細さとともにいることが、私は本当に苦手だということがわかった。

 例えば、知らない駅で電車の乗換をする時、心細い。
 何か文字が書いてあるのに自分だけ見えていないと、心細い。
 人の表情が読めないと、心細い。

 そんな時、矯正(強制?)した視力で見ると、心細さを隠すことができて、「私は知っている」という安心感、もしくは力、強さを感じることができる。

 「私は知っている」「私は強い」「私は大丈夫」
 この仮面を、眼鏡と一緒に外すことができる。

 そして、心細さや弱さと一緒にいることが少しずつできるようになってくると、ダメな自分を責めることが減ってくる。
 電車の乗換で効率的にさっと動けなくても、迷ってウロウロしても、文字が見えなくて何か損をしても、知っている人の顔を識別できなくて失礼をしてしまったとしても。

 抜け目なく、効率よく、間違いはなるべく少なく、かっこ悪いところは見せないようにしなくてはならない、と自分に強いていたことを感じ、自然に、ゆっくりとそのことを辞めはじめている。
 もともと、そういう弱さは自分が隠しているように思っても、人からは丸見えのことが多いから、もとが無駄な抵抗であって、その弱さを自分が許すか許さないかの問題ではあるのだけど。

 言葉でいうのはかんたんだ。
 「かっこ悪くてもいいじゃない」
 「間違ったって、そのままの私でいいんだよ」

 そのことを身体が実感としてつかんでいくこのベイツメソッドによるプロセスは、言葉や思考を介さないので、より根本的で継続的な変化のような気がする。

 これまでも同じことに思い至ったことはもちろんあるけど、その気づきはどちらかというと瞬間的にやってきて、劇的で、高揚感を伴っていて、持続性に欠けていた。たぶん、思考に偏った気づきだからであって、理屈としてはわかっても、身体が本当には納得して日々の反応を変化させていくプロセスになっていなかったからじゃないかな。
 
 日々、こつこつ、じっくりと。
 毎日、眼鏡のないちょっとした不快感に少しずつ耐えていく過程で、私の辞書に今までなかったこんな言葉の大切さがしみじみとわかるようになってきた。

 やっぱ、おそるべし、視覚のメカニズム。


 イギリス修行を終えて、さらにパワーアップしたらしいマイティーチャーとの次のセッションが相当たのしみだ。

選択と決断のはなし   

2010年 07月 04日

 こないだ、ランチをごいっしょしたテッシーと、ワールドカップの日本ーデンマーク戦での本田の試合後の様子についてアツく語っていたら、テッシーがこんなことを言い出した。

「あれは、本田が優勝する、レアルに行く、トップにたつ、ということを『選択』してるからだと思う」

テッシーによれば、何かを決めるとき、選択することと決断することの二つがあって、決断というのは理由があって決めること、選択というのは自分の内側からの衝動に従って決めること、なのだそうだ。

理由があって決めたことは、理由がなくなればそのこともなくなるし、言い訳がきく。
サッカーの才能があるから、サッカーが好きだから、勝ったらみんなが喜ぶから。

選択は、全て自分で責を担う。



うーむむ。
納得。

自分自身を考えてみると、「条件が整ったから、整ってるから何かをする」(例えば引っ越しとか…汗)というのは案外思ったようにすすまない。

そーか、いろいろと理由をつけてやってきたなあ、とつぶやくと、テッシーは
「いや、あゆみちゃんは選択を繰り返してきた人にみえるよ」
と言ってくれる。

ほお。
そう言われてみると、北海道から30も越えて出てきたこと、「死をみるんだ」とホスピスに飛び込んだこと、「もう死を見続けたくない」と仕事を辞めたこと、チネイザンを習ったこと、いまチネイザンをやってないこと、本当に理由を問われても、「そうしたいからだ」「そうしたかったからだ」としか言えないことばかりだ。

でも理由を説明しなきゃならない気がするので、何とか言い訳を考えだして、「過去こういう理由でやったけど、今こういう状況があるから、この先はこういうふうにやっていく」というストーリーを作っておかなきゃなんない、という焦りがいつもそばにあった。

いま、それがないから楽なんだな〜と書いててふと思う。


私の行動を理解できない人には理由を聞かれるけれど、べつに説明する必要はない。
と、説明をしなくなってきたら、説明を必要としない感覚的なお友達とつきあう比率が増えてきた。
おもしろいもんだ。


そう考えると、政治でも「説明責任」なんてのをあんまり求めすぎるから、論理に偏りすぎて、直感的に物事を断固としてすすめる、という強い政治家がいなくなるんじゃないかなーともふと思う。


昔から、「いつ死んでも後悔はない」と感じていたけど、それは何かを成し遂げたからとかやりたいことはやったからとかほしいものを手に入れたとかそんなことが付随していなくても、全ての時点で私がそのとき出せる全力(ほんのちびっとだったとしても)を出し尽くして選択してきたからかもしれない。
それを思うと、幸せだなあ。
だだっこの全力。


選択は、間違えてもいいんだと思う。
そもそもマチガイなんてない気もするけど、「あ、ちがった、これは欲してなかった」と思ったら、違うものをまた選択すればいい。
それを欲してないということが身をもってわかる、それは素晴らしいことだ。


いま受けているベイツメソッドでも、「見ること」と「見ようとすること」には決定的な違いがあるそうで、見ようとすることには、内部で強制する自分と強制される自分に分裂が生まれる。
では「見ること」をするにはどうすればいいか?
最初はそれが難しく感じたけれど、単に、「見ること」を選択するということなのかなあ、といまは何となく思う。


と、あっちゃこっちゃにはなしがとんだけど、
選択、というキーワードがいますごく気になる、のはなしでした。

まとまんねー!

脱皮   

2010年 06月 24日

こんなふうにずぼっっっ!と脱ぎたいよねー

きもちよさそー!

http://www.enosui.com/shortmovieentry.php?eid=00049&exhibition=2

バカボンのパパ礼賛   

2010年 03月 14日

パーパなーのら〜!!!
これでいいのだ〜〜!!!

ということで、最近お世話になったバカボンのパパさんにお礼をさせていただこうと思います。


何だか厳しかったような冬の終わりかけ、春が来そうで来ない思わせぶりな2月末に、それを越えないと春は来ないよ〜とでも言いたげな大問題が自分の中でボッパツしていました。

自分の行動の結果だから自分が悪いんだけど、その解決は自分ではどうにもできない!という問題で、もう今まで後生大事に抱えてきたいろんなものを失ってしまう〜!!という不安と恐怖でいっぱいでした。

そこに現れた女神のようなオカナオさんが、たくさん大事なことを伝えてくれました。


「今はとにかく非常事態。そのことをまず認めてあげて、ネガティブであることを自分に許してあげてください。」

「非常事態なんだから、食べたくなければ食べなくてもいいし、お風呂に入らなくてもいいし、とにかくできることをやって下さい。お菓子をバカ食いしたければしてもいい。人に優しく接することができなくてもいいし、イライラをぶつけちゃっても仕方ない。自分をコントロールできない3才児だと思って、過ごして下さい」

「何をやっても、自分を責めないで下さい。今まで充分自分を責めてきたはずだし、責めたかったら非常事態を脱したあとにして下さい。今はとにかく、3才児の自分を責めずにいっしょにいてあげて下さい。」

「これでいいのだ!!っていうバカボンのパパと、3才児の自分と、いっしょにいてあげて下さい」

「しっかり、泣いて下さい」

「今は、自分でコントロールしようとすることをやめて、大きなものに委ねることを学ぶチャンスです」



それで、その通り、過ごしました。
だって他にやりようもないし。本当にそれしかできないし。

ポテチ三昧、寝て起きて泣いて、オリンピック見て泣いて、時にはこみ上げてくるものに任せて、床にごろんと転がってゴキブリみたいに足をじたばたさせて声を上げて泣いて。
何を見ても泣けるし、こんなに涙がでても脱水にならないんだな〜とか思うくらい泣きました。

もう何のために泣いてるかわかんない時もあり、自分が恥ずかしくて泣いてる時もあり。

泣いちゃだめとか、自分を律しようとか、正しくあろうとするとか、そういうことをぜーんぶ手放して。
肌ボロボロで、部屋もぐちゃぐちゃで。

ところが、1〜2日はどん底だったのでそれしかやりようもなく、とことんそのようにできたのだけど、少し助けの手が差しだされたりすると、すぐにどっかから理性というかエゴのようなものがはい出してきて、「もう大丈夫、解決した。もう充分泣いた。3才児は癒された」と思おうとするのです。

「願ったら、手放したら、もう解決策が示された!もう私は大丈夫!私ってすごい!!」

それで、知らず知らずのうちにまた、さらなる解決のためのいろいろな計画を練ろうとする。

ああやって、こうやればもっとよくなる。
あれもこれも手放さなくていいはず。
ってね。



そうやって、メンツを保とうとするエゴが出てくるメカニズムを知りました。



「3才児の自分」は内なる神性で。

神性が出てくると、エゴにとっては都合が悪い。
なんでか知んないけど。

(たぶん本とかで適切な説明や表現があるんだろうけど、今は体験したことでしか書きたくないので、こんな感じですいまめ〜ん)

エゴは自分が死んじゃうんじゃないかと思って、あわてるんでしょうねえ。
ことあるごとにエゴが出てきて、3才児の自分との接点を私から奪おうとする。

でももう、私は3才児とともにいないことには、どうにも立ち行かなくなっていて、接点を失うとまたナオさんに助けを求める。

ナオさんは見捨てずにいてくれる。

そうすると、3才児の私はまた力を取り戻して、行動する。

行動の結果、間違ったり、うまくいったり、恥ずかしい思いをしたり、怒ったり、笑ったりする。

でも、それでいいのら!
だって、私にはバカボンのパパが天使のようについているんだもの〜〜〜。

というか、それしか今はできないのら!





そんなとき知った、ひろ子さんのmixiコミュニティで、こんなトピックがあって。


『○○で何が悪い!』

後ろ向きで何が悪い!
後ろ向きなのが嫌いで何が悪い!
えらそうで何が悪い!
えらそうなのが嫌いで何が悪い!
知ったかぶって何が悪い!
知ったかぶりが嫌いで何が悪い!
自分は特別だと思って何が悪い!
自分は特別だと思っているのが嫌いで何が悪い!
変わらなくって何が悪い!
ありのままが認められなくて何が悪い!
自信がなくて何が悪い!
自信を持ちたくて何が悪い!
依存して何が悪い!
依存が嫌いで何が悪い!
病気で何が悪い!
病気を治したくて何が悪い!
欲しがって何が悪い!
自然じゃなくて何が悪い!
きちんとしてなくて何が悪い!
自由じゃなくって何が悪い!
コントロールしようとして何が悪い!
何かを悪いと思って何が悪い!



どうです?
気持ちよくなってきたでしょう???
みなさんもごいっしょに!

はい、もういっちょ。


泣いて何が悪い!
怒って何が悪い!
ふざけて何が悪い!
へらへらしてて何が悪い!
弱くて何が悪い!
不細工で何が悪い!
臭くて何が悪い!
汚くて何が悪い!
自分らしくいられなくて何が悪い!
見栄を張って何が悪い!
プライドが高くて何が悪い!
ケチで何が悪い!
抑圧されてて何が悪い!
ゆっくりで何が悪い!
急いで何が悪い!
適当で何が悪い!
いい加減で何が悪い!
うそをついて何が悪い!
人を制限して何が悪い!
枠にはめて何が悪い!
枠にはまって何が悪い!
束縛して何が悪い!
お金がなくて何が悪い!
リボ払いの何が悪い!
行き当たりバッタリの何が悪い!
愉しんで何が悪い!
愉しめなくて何が悪い!






これでいいのだ〜!

ナオさん、ひろ子さん、ありがとう♡








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写真は、いなくなったと思ったら押し入れの奥の衣装ケースで発見されたしろたんです。
たぶん、出れずに困ってたんだと思う。
ぜんぜん関係ないですが。

すきま大好き   

2010年 02月 10日

いろんなことがあって楽しくって突っ走っていたらいつのまにかまた心と身体が満タンになっていて、すきまがなくなっていて、しろたんをゆっくりなでる気持ちにもなれなかったし、身体も疲れていたので、昨日はとにかく早くねた。
そしたら覚えてないけどたくさん夢を見て、起きたらすきまがちゃんとできていた。


身体の要求を感じられることのヨロコビよ。

身体の要求を満たしてあげられることのヨロコビよ。

またたくさんの美しいものをすきまに受けとめられることのヨロコビよ。

私がみがまえてしまうもの   

2010年 02月 09日



批判すると同時に

求めてくる人。



求めているのに

否定してしまう人。




愛と拒絶の

ダブルバインドで動けなくなる。



動けなくなるのは

私もその人を愛しているから。



やはり愛ゆえに。






父性とか、

男性性とか。