夢の中では、日の当たる実家の茶の間で、私はなぜか成人式に作ってもらった晴れ着を着て、髪も綺麗に結い上げた姿で、赤い口紅をつけて、死んだママの膝に頭を乗せていた。ママはタイトスカートををはいていた。
ママは差してくる陽射しに背を向けていたにもかかわらず、なぜか顔の半分は光が当たっていて見にくかった。
私が19(だったと思う)の時にママが死んで以来、ママを夢に見ることも数えるほどしかなく、何度か見た夢はあったとしても、顔がいつもはっきり見えないし背中だけだったり、おぼろげな印象しかつかむことができなかった。
顔もなぜか思い出すことができなかった。写真を見てそこにある顔を認識することができたとしても、いきいきと動くママを思い浮かべることができなかった。
寂しいような気がしていたが、そもそも顔だけでなくどういうママだったか、一緒に何をしたか、どんな言葉を交わしたかという記憶がほとんどなくなっていたので、寂しいという感情も起こりようがなかった。脳の記憶システムが、もともといなかった人のように作りかえたようだった。
父とも姉とも、ママが死んだときに励ましあったりしなかったし、その後もママの死の悲しみを共有したりしたことはほとんどなかった。
父とは一度話す機会があって、ママが家に帰りたい、と言ったので、死の直前に「家につれて帰ろう。家で死んでもいい」と決めて病院に向かったんだ、ということを教えてくれた。病院に行くと、その時は点滴をしていてすでにシビアな状況だったらしく、家に帰るなら医師や看護師がついていくというおおげさな話になってしまい、自宅は入院している病院から2時間くらいかかるところにあったから、あきらめた、ということだった。それを聞いて、私は父を見直したものだった。
結局私たちは、ママの死を十分に悲しみきってはいないし、どこかに押しやることで何とか生き延びてきたということなのだろう。供養や墓参りもおざなりにしてきた。
一度、「ママの記憶や痕跡が私の中にないことが寂しい」と人に話したとき、感情とは関係なしに涙が溢れてきたことがあった。「ほら、そこに痕跡が確かにあるじゃない」とその人が言ってくれたのは、何というか救いのように感じた。
残っている数少ないママの記憶。
乳がんの肺転移で余命が少ないことを知っている私は、私が住んでいる札幌からも父と姉が住む町からも離れた病院に入院しているママは寂しかろう、そばにいたいと思って、看護短大を一年休学して近くの叔母の家に居候したい、とママに言った。
その時まだママは、肺に転移していることは知っていても、抗がん剤で治すためにがんばって治療していたのだし、余命が少ないとは知らされていなかった。
ママは私の申し出を聞いて、「あっちゃんに早く立派な看護婦さんになってほしいから、学校は休まないで」と断った。そしてその言葉は思いのほか私の心の深いところに刻まれてしまった。
しかし、時間がないのに、ママだけがそのことを知らない。そんなことがあっていいはずはない、と若くて看護の道を志す私はいらだった。余命告知について、父と話し合い、父が主治医に頼み、あと3か月、という告知をしてもらった。
それからの記憶は、私にはあまりない。ママはおそらく、その後ずいぶん落ち込んでいたはずだ。
4月のある夜、ママのことについて友達とずいぶん長い間電話で話し、その電話をきったすぐ後、父からママがあぶない、という連絡があった。札幌の叔父の車に早朝乗せてもらって来るように、とのことだった。あまり覚えていないが、その時も移動中も、現実のこととは感じられず、無感覚だったように思う。
朝早く病院に着いてエレベーターに乗ろうとすると、叔母が一人泣きじゃくりながら降りてきた。その叔母は何も言わなかったが、もう一人札幌から同じ車に同乗してきた叔母が私の手を強く握ったのを覚えている。
病室に入ると、動かなくなったママがベッドに寝ていた。顔が灰色ぽかった印象だ。
私を見ると、父が「そばにつかせてやればよかった。ごめん。」と泣きながら言った。
姉は口をへの字に曲げて、ふてくされたように静かに泣いていた。
私は、どうすればいいかわからない自分と、たぶんここは泣くところだろう、と気分を自ら高めて泣こうとする自分に分裂していたような気がする。泣けるだけ泣こう、といろいろな可哀想な自分の状況を思い浮かべた。「死に目に会えなかった自分」「そばにいたいと言ったのにいられなかった自分」「若くして母を亡くした自分」。ドラマに身を浸そうとするようにして、あえて泣いた。
それはなんというか、私にはそういう役割を求められていたような気がするからだ。
病院から自宅へ霊柩車で移動する間、私はママといっしょに寝ていくことにした。それが唯一私とママが静かに二人だけの時間を過ごせる機会だったからだ。その時は、役割など気にせずに、ママの死を感じることができた。
ずっと手を握り、顔に触り、そのからだがが生き生きと動いていたことを思い出そうと試みたり、それがもう動かないことを感じようとしたりしていたのではないかと思う。
たぶん泣いてはいただろうが、それは静かな調和のとれた時間だった。死とともにある時間。
今思えば、のちにホスピスで仕事をすることになる布石が、ママの死にまつわるそこかしこに置かれていた。
もっと何かしてあげられたのではないだろうかという後悔、ママの「立派な看護婦さんになってほしい」という言葉の影響ももちろんあるけれど、死とともに過ごす時間の圧倒的な静けさ、安心感。だって、もうこれ以上死なない、変わらない。その安心を強く求めていたように思う。
またおそらく、もっと悲しみを実感したい、という意識にのぼらない深いところにある欲求もあったのだろうと思う。悲しみを身体のどこかに押しとどめて、やっと何とか生き延びてきたのだから。
若い友人の死がきっかけでホスピスを辞める少し前、患者さんの死が悲しくて仕方なくなってきていた。
それまでもたくさんの死を見てきたのに、患者さんのご仏前で、初めて止められないくらいに泣きじゃくってしまった。
別な患者さんがまさに息を引き取る瞬間に、ご家族全員とともに居合わせた時、家族のように泣いてしまい、「泣いてくれてありがとうございます」と娘さんに言われた。
もう、悲しみを抑圧しきれなくなっていた。
私はこれを、その少し前に受けたロルフィングの効果だと感じている。
身体の構造的に無理しているところを少しずつ解放していくことで、本質的に無理のできない身体に変化させていくロルフィングは、同時に心の無理もきかなくさせていった。
仕事を休み、辞めた頃の2か月間、亡くなった友人を思って泣き、ママを思って泣いた。ずいぶん悲しむことができるようになったものだ、と思った。でもまだママの顔をありありと思い浮かべることはできなかったし、夢に出てくることもなかった。
そしてまた今、同じようにママの記憶を掘り起こし、悲しみをなぞり、泣いている。
夢のような世界で初めて、ママと顔を向かい合わせ、話をすることができ、聞きたいことを聞けたからだ。
これからも、この作業を続けていくのだろう。少しずつ深いところでママと再会して、そこにある悲しみを悲しんでいくのだろう。時間をおいて、何度も繰り返し。
夢の中のママは、とても寂しそうな顔をしていた。
「どうしてそんなに寂しそうなの?」とママの膝に必死で顔をすりよせている私が聞いた。言葉に出すのではなく、ほとんど心の中で通じあうような会話だ。
「誰も本当にはママのことを大事に思ってくれなかったから」と、ママは言った。
「ばあちゃんも身体が弱くて自分のことで精一杯だったし、じいちゃんなんか私のことはかまいもしなかった。姉たちも…。パパはいつも私を否定するようなことばかり言うし。」
「でも、ばあちゃんはママを先に亡くしたことを悲しんで、自分が変わってあげればよかった、あっちゃんが可哀想だっていつも言っていたよ。パパは口が悪いけど表現の仕方を知らないだけで、ママを死ぬ前に家に連れてきてやりたかったって。みんな、完璧ではないけどママのことを大事に思ってたよ。それに、私とお姉ちゃんは?」
ママは少しの沈黙の後、
「そうだね。ママはみんなの愛を感じ取ることを学ばなかったんだね。まだ足りない、といつも思ってた。
家を出て行こうかと本気で考えたこともあったんだよ。でもママをうちに留めたのは、あっちゃんやお姉ちゃん、二人の存在だった。
二人がママを求めてくれていると感じていたからね。二人のことを大切に思ってたんだよ。ちゃんと表現できなかったかもしれないけど。
だからあっちゃん、自分を大事にしてね。」
最後の言葉を呟いた時、ママの顔はもう寂しい表情ではなく、優しく柔らかい顔になっていた。
あとはどうしたのだろう、覚えていない。
確か、ママの胸に顔をすりすりと押しつけたような気もする。
夢から覚めたとき、私の混乱と分裂の嵐が治まっていた。破壊衝動と、自分を大事にしたい思いの間を、行ったり来たりしていた。
そうか、この分裂は私が自分を大事にしていけるようになるプロセスだったのだ、といま書きながら思う。もともともっていたこの分裂が意識の表舞台にのぼってきたのは、それをひとつにする準備ができたからだ。
この準備には、私をとても大事にしてくれた好きだった人が関わっている。
私を大事に思うママも、漢方を出してくれる薬剤師さんも、深いところでケアしてくれる気功師さんも。ユキさんのエネルギーの学校も。
みんな母のエネルギーだ。
そして次のところに行くのだ。
ママとの再会を胸に携えて。